ただ長生きするためではなく、アンチエイジングでもなく、
”すてきに活ききる”ために、
ひとりでも多くの方に
私たちが本来持っていた免疫力を取り戻すチャンス(機会)を、
お届けしたい。
あなたの笑顔と志(こころ)を貸してください。
人とひとが集いつながり、
一人ひとりが輝き活きる場づくりのお役に立てたら、嬉しいです。
<プロジェクトへの想い>
日本はいま、世界でもトップを走る高齢化先進国。 医療費の負担増や年金の枯渇、そして、深刻な問題が老老介護や一人暮らしなど、“高齢者だけ世帯”の増加。
誰もいない家の中で転倒して意識を失ってしまったら、助けを呼ぶことすら難しい世帯が増えつつある。ひょっとしたらそのまま...
なんてことも、十分現実問題として起こりうる。
さらには、「まち」とは、「市」の立つ場であったように、それは、人とひとを「つなぐ」場であったが、「まち」の衰退により、ヨーロッパの都市にみられる広場やカフェ、パブ、レストランのような「たまり場」的な人とひとを「つなぐ」機能が痩せ細り、コミュニティのきずな形成機能の衰退というきわめて深刻な事態をうみだしている。
小さなネットワークを各地のオーナーのもとで低リスクに開設し、人とひとが集いつながり、一人ひとりが輝き活きる場づくりのお役に立ちたいと想う。
そのために、ひとりでも多くの方に私たちが本来持っていた免疫力を取り戻すチャンス(機会)を、小さなネットワークを通して、お届けしたい。
そして、気軽に試すことで、低リスクの取り組みを具体化していきたい。
◇環境
いま、人と環境にやさしい持続可能な経済、社会システムの構築が求められている。
私たちは、身体を、細胞を活かしきるための知恵を、身につける機会に恵まれないままに年を重ねてきました。
・日本は、国[行政]、民間事業者、個人のすべてが、
”簡単・便利”の価値観のもとで、生活をしている。
-コンビニ、自販機、インスタント・冷凍食品、食品添加物、肥料・農薬を
前提とした商品があふれている。
・3世代、4世代の同居によって、自然に伝承されてきた生活の知恵、細胞を
活かしきる知恵が、核家族化によって途絶してしまった。
その結果、自身の身体の声を聴くこともできず、好き放題の生活をしてきた。
そして、なんとなく体質だからと片付けていた症状が、病の症状に変化する年頃になってきました。
人がより良く変わり、継続的に輝くのは、その人が本来の魅力を取り戻した時です。
変わったのではなく、元々持っていた才能や表現力を思い出した時。
人が病や怪我を治すのは、もともと持っていた治癒力を取り戻した時です。
その人が本来持っている能力を引き出す、それは、医療や教育というジャンルを超えて、昔も今も最も効果を発揮するアプローチです。
これまでの科学や医学は、ものごとを細かな要素や機能に還元し、生命現象までも分割・分離してきました。
その結果、私たちの健康や生活環境、社会の仕組みまでも縦割りに分断され、全体としてのつながりや働きが、見えにくくなっています。
それが結果的にさまざまなストレス要因となって、私たちの自然治癒力を弱めているといえます。
現代社会で問題となっている病気は、老化現象であり、生活習慣病なのです。
日々の食べ物、水など生命の維持に不可欠なものの質の低下、およびこころのおきどころが不十分なために、血液が汚れ血流が悪くなり、身体機能が適切に働かなくなったことにより生じた不具合なのです。
60兆個の細胞の代謝活動が滞ることによって、さまざまな身体の不調が起こっているのです。
生活習慣病の原因は、身体を構成する細胞の一つ一つが正常に働かなくなったことなのです。
病気は、長年の生活スタイルの結果として現れるのです。生活スタイルを変えることによって、不治と思われた病気からも解放され、それ以前よりずっと健康になれます。
ほとんどの病気は、血の巡りを良くすれば、発症を防げるし、治すことができます。”冷え”は諸悪の根源というくらいに、冷えはカラダに様々な問題を引き起こします。
血液の流れが悪くなると細胞に必要な栄養が届きにくくなると同時に、老廃物の回収も滞りがちになり、カラダが冷えます。
その結果、さらに血液が汚れ、血液の流れが悪くなり、内臓の不調、肩こりやむくみなど生活習慣病の症状が現れてきます。
こういった、カラダが発するメッセージ(症状)に気づかないと、問題はどんどん深刻化してしまいます。
病気になってしまってから仕方なく動き出すのではなく、病気になる前、つまり日常の中でカラダの声を聞き、セルフケアの精神を持つことが大切です。
わたしたちの身体に、神さま(サムシンググレート)が創りこんでくれた機能を活かしきる。身体の機能に本来の働きをさせれば、すてきに活きることができます。不具合が発生しても修復機能がはたらき、復元することができるのです。
不具合の現象を改善するのではなく、細胞が本来の働きをしなくなった原因の解消に取り組むことが重要です。
そして、症状の改善に向けた取り組みは、一人ひとりのいままでの生活の上に組み立てるものと考えています。
なので、取り組みに共通の正解はありません。
過去を否定するのではなく、過去の上に、新たなわたしだけの”これから”を組み立てることが大切なのです。
◇想い
社会人として培った知見を活かし、愛着のある居住地で、自宅を開放し、
「”よく活き、よく老い、よく死ぬ”ために、細胞を活かしきる生活の知恵」
を培いながら、生活の知恵の共有、伝承に取り組む。
◇こだわり
・無理なく継続できること (時間的・経済的・体力的)
・ここに活きていることを、固有のスタイルで地道に表現できること
・経験価値を提供するだけでなく、自身でも享受できること
・収入は価値を提供した結果であり、目的ではない(生活の糧ではない)
◇内容
ソーシャルフランチャイズによる生活の知恵共有サロンの展開
◇成果・提供価値
・細胞を活かしきる知恵の実践、共有・伝承
・「わたしの細胞を活かしきる設計図(recipe)」のデザイン、提供
・”よく活き、よく老い、良く死ぬ”ための生活
[すてきに活ききる 健やかな日々]を、みずから営むことができる
‐ 気持ちよく眠ることができ、朝の目覚めが良いこと
‐ 身体が軽く、思ったとおりに動くこと
‐ 腸が快調であり、食事がおいしいこと
◇参加条件
・50歳以上の方 もしくは がんサバイバー(目指す方を含む)
・自宅を開放できる方
すべての病気に原因があるのだから、
病気の症状を治すのではなく、原因を取り除かなければならない。
治さなければいけないのは症状ではなく、
症状を生み出している体質であり、
体質を生み出している生活習慣や環境である。
人生前半の仕事が10万時間、後半の自由な時間が10万時間。高齢化により、どっと多くの日本人が人生後半に突入している。
古代インドの人生訓として「四住期」という教えがある。人生を4つの期間に分けて、それぞれの期間における理想的な過ごし方を説くものだ。
(1)学生期:良き師を得て勉学に勤しむ時期
(2)家住期:家庭にあって子をもうけ、一家を営む時期
(3)林住期:森林に隠棲して静かに瞑想・修行する時期
(4)遊行期:一定の居宅をあえて持たず、諸国を放浪・遊行する時期
今と比べれば平均寿命が著しく短かった古代インドにあって、子どもを一人前に育てた後、林住期や遊行期まで命が持ちこたえることは稀だった。だから、多くの古代インド人にとっては、四住期は厳しい現実とかけ離れた夢、理想だった。
さて、古代インドから時空を飛び越えた現代日本。平均寿命は著しく延びた。欧州では1910年に、そして日本では1947年に平均寿命が50歳を超えた。そして、周知の通り日本人の平均寿命は、2012年時点で男性79.9歳、女性86.4歳にまで延びている。
平均寿命を単純に比較すれば、平均的な日本人にとって、古代インド人から見れば夢のまた夢だった学生期、家住期、林住期、遊行期のすべての時期を過ごすことが可能となっているのである。
四住期を現代日本にあてはめて年齢的に区分してみると、おおむね次のようになるだろう。
(1)学生期:25歳くらいまで
(2)家住期:50歳くらいまで(65歳が定年)
(3)林住期:75歳くらいまで
(4)遊行期:それ以降
さて、1日の労働や通勤に費やす労働関連時間として9 時間、そして睡眠、食事、お風呂に入るなどの生活時間を9
時間と仮定してみよう。ここで、引き上げられつつある退職年齢の65歳で線を引いてみる。
家住期の就業中の「労働関連時間」=9時間×250日(年間労働日数)×43年(22歳で大学を卒業してから65歳で退職するまでの43年)=9万6750時間。
定年後の林住期、遊行期の「自由な時間」=15時間(生活時間を9時間とし、1日15時間を自由に活動できるとする)×365日×15~21年(65歳から男性80歳・女性86歳までの15~21年間)=8万2100~11万5000時間。
すると、どちらも10万時間前後となる。現在働いている読者の皆さんは、今までに長いこと働いてきた方が多いと思われる。その労働時間に匹敵するか、それ以上に長い自由時間が定年後にあるという現実を予見して、何を思うだろうか。
今後日本の総人口は減りながらも65歳以上の高齢者は増えてゆく。
すなわち、高齢化率は上昇を続け、2013年にはすでに4人に1人が、そして2035年には3人に1人が65歳以上となる。さらに2060年には2.5人に1人が65歳以上となってゆく。
さて人生前半の10万時間はとかく忙しい。
人は、人生前半の10万時間で、どっぷりと近代資本主義と市場に参加する。差別化の効いた能力や資格をテコにしつつ毎日午前9時から午後5時の貴重な時間をブチ抜きで働く。ローンを組んで家を買い、税金を払い、寸暇を惜しんで遊び、飲み、食べ、消費財、耐久消費財の購入に所得を割り振る。
産業社会の生産活動やイノベーション活動に貢献し、所得を得て家計を豊かにし、イノベーションの成果を生活に導入する。
ここで注意したいのは、「近代資本主義や市場競争は、人生前半の10万時間に焦点を置いている」という点だ。
近代資本主義や市場競争は、それに耐えうる人には「豊かさ」を、それに耐えられない人には冷酷な「排除」をもたらしている。
例えば子供の貧困問題。
毎年10万人近くの高校生が中退し、若年出産などを経て貧困のスパイラルに落ちてゆくという社会的な排除がある。
貧困家庭に育つ→高等教育を受ける機会が激減→不安定雇用にしか就けない→貧困層から抜けることができない、というように社会的な排除がスパイラル化している。 由々しき問題だ。
人生後半の10万時間に焦点を置く原理や道標になるような「~主義」があるのだろうか。
答えは「暗中模索かつ実験途上」となろう。人生後半の10万時間については、前述したように、人類史的にほとんど未踏の領域なのだ。
ただし、確実なことが1つだけある。人生前半の10万時間をターゲットにしてきた近代資本主義や市場競争の行動様式では、まったく立ち行かなくなるということだ。
要は定年後の10万時間の使い方そのものが、人類史的に未開拓なテーマであり、実は日本は、その実験の最先端にいる。定年後の10万時間は、光り輝く黄金にもなれば、鉛にもなるのである。
近代資本主義や市場競争は、金銭欲、物欲、消費欲、食欲、性欲などの欲望を刺激してやまない。
仏教のほうでは、これらの欲求の充足を求めてやまない自我を「小我」と呼ぶが、人生前半の10万時間では「小我」がどうしても勝ってしまう。
人生後半の10万時間では、「小我」を超え、自他の区別を超えてゆく「大我」に移行してゆく格好の時期でもあろう。
人生後半の10万時間では、多くの人にとってソーシャルな価値は3つに集約できるだろう。
(1)健康を維持・増進するケア
(2)自分の利益だけでなく他者のことを気にかけるケア
(3)自分が関わるコミュニティーへのケアである。
健康を得てはじめて人生後半の10万時間は生き生きとしてくる。
つまり慢性疾患に足を絡めとられないように、健康を増進し疾病予防に努めることが肝要だ。
人生前半の10万時間では、厳しい競争にさらされてサバイブするのか、いかに自分が得る利益を最大化するのかに関心が向かってしまう。
でも後半の10万時間は、むしろ、排除されている人々や利他を気にかけ、労働市場、製品市場、資本市場などお金との交換にとらわれない「場」としてのコミュニティーにおける活動が大切になってくる。
人生後半の10万時間に対応し、構想するのは、65歳を迎えたその時では遅すぎる。人生前半の10万時間のうちから長期的に準備しておくべきだろう。
つまり、ケアシフトは、人生後半の10万時間のみならず、人生前半の10万時間にも影響を与えるのである。
そんな中で、65歳を迎えるまでに、定年後の10万時間を光り輝くゴールデン・エイジにするために、自分と社会をゆるく小さく結ぶソーシャル起業を勧める。
いずれ手中にする10万時間の自由な時間の一部をソーシャルな仕事でクリエイティブに使うというシナリオだ。
シニア層は、長年の勤労義務から解放されつつあり、自由の自由たるゆえんの自問自答に熱心であり、環境、教育、雇用、貧困、格差、健康、福祉、人権、エネルギーに関わる社会問題にも敏感だ。
そして、現代日本の「豊かな」人々には、古代インドより、はるかに学びの自由度がある。
そこで人生をリセットし、人生後半の10万時間で新たなチャレンジに取り組んだり、近代資本主義や市場競争主義が生んできた「排除」に対して、問題解決行動を起こしたりすることができるのである。
人は、意識を変性させマインドフルになって、新たな文脈つまり世界にコネクトすることにより、新しい物語を紡ぐようになる。
コネクトし、橋渡しする両極、つまり、世界と自分が再帰的に変容してゆくのである。この過程では、自己変容と世界変容が相互交流し、再帰的に動いてゆく。
もとより、人はすぐれて自己組織的で複雑適応的な生きものだ。
ちょっとしたシステム思考、デザイン思考、マネジメント思考の方法を体得すれば、だれもが新しい物語、つまり、自己と世界の変容の只中に自分を置くことができるようになる。
人は、世界をケアすることによって自分をケアする。
再帰的なケアの循環は、両者の関係性をより身近なものとする。この関係性をつくっていくことがソーシャル起業の本質である。
ソーシャルな起業力、つまり、より自由に生きて自分のソリューションをグローバルそしてローカルなコミュニティーで生かし、近代資本主義や市場競争が産み落としてしまった「排除」や社会問題を、自分のこととしてケアし、熱く解決してゆく人材こそが、今求められているのである。
それが、近代資本主義や市場競争の自浄作用なのか、はたまた近代資本主義や市場競争に置き換わる新しいポスト資本主義なのかについては、いまだ明確な輪郭はない。
しかしながら、だれもがケアシフトの影響を受けるし、またケアシフトの当事者となり得る。