自分の中の光と闇

人はな、自分の中に

光と闇をもっているのじゃよ


光とは愛にあふれた自分


闇とは自分の中の見たくない部分

嫌いな部分のことじゃ


光ばかりをもとめ、闇を嫌う人が多いが

そちはどうかね?


自分の中の光と闇を統合していくと

愛のステージがぐんと上がり

この世にいながら「あるがまま観る世界」に近づけるのじゃが…

そち近づいてみたいと思わんかね?


もともと光も闇もないのじゃよ


自分がジャッジしていただけ


「これはいい」「これはダメ」って


光と闇の統合とは

ジャッジしないことなんじゃよ


魂の本質である「愛そのもの」に近づくこと


これは頑張ってその域を目指すのではなく

ゆるめてあげることなんじゃ


みんな頑張って高みに高みにと目指すから

たどりつかないんじゃよ


向上とは上に上に向かっていくというよりも

むしろ、いかに自分の不完全さを

認めてあげられたか?


いかに相手の不完全さを

認めてあげられたか?の中にある


不完全だと思うことが

ありのまま観ることを妨げてしまうのじゃよ


人はもともと

そのままで輝いていて役立っている


なのに不完全だと思うことで

自分に×をつけている


不完全さを許した時、人は宇宙の視点と同じ「ノージャッジ」の領域にいくのじゃよ


すべてを受けとめ、すべてを許す


この愛の波動が、人の中の

「愛そのものの自分」を目覚めさせるのじゃ


「何者かにならなくてもいい」

「あなたはあなたのままでいい」


そう言われた時

その人は堕落していくのではなく

その人の中の「愛そのものの自分」が

目覚めるのじやよ




そちらが観ている現実はな

映写機のようなものなんじゃよ


光が自分の中のフィルターを通り

スクリーンに映し出されているのじゃよ


自分のフィルターの中に


「こうじゃなければ」

「こうあるべき」

「こんな感情をもったらいけない」

「こんなことを思うなんて最低だ」

「こんな自分は見たくない」


というこだわりがあると

その部分に光が通らず影ができる


するとありのまま観ることができず

欠けて見えてしまうんじやよ


自分のフィルターの中にあるこだわりをとり

光を通しやすくするには

マイナスの感情もプラスの感情も

いったん自分の中を通してあげることが

必要になってくる


そのための『究極のじゅもん』はな

自分の中にわいてくるすべての感情に

『いいよいいよそれでいい』って

言ってあげるんじゃよ


自分の感情をいったん全部受け止める


自分の感情と闘わない


これが究極の認め方じゃよ


どんな感情も、感情自体は悪くない


しかし人は「こんなこと思っちゃいけない」

「こんなこと思う自分は最低だ」

と自分を責め、自分の中のネガティブな感情を嫌う傾向がある


しかしな、自分の中のネガティブな感情を

嫌えば嫌うほど、隠そうとすればするほど

ジャッジする自分が出てきてしまうんじゃよ


するとな、よけいに宇宙の波動から

それていってしまうんじゃよ


人はな、自分の中の

ネガティブな感情を抑えつけるのに

ものすごいエネルギーを費やしている


自分の中の

ネガティブな感情を認めまいとしたり

こんなこと思う自分はダメだと思ったりな…


認めちゃえばいいんじゃよ


「あ、いた~!そんな自分!」って


そしたら、抑えつけるために使っていた

膨大なエネルギーを

もっと自分がやりたいことに使えるんじゃよ



*1分で感動から転載


たきがみ博士
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  旬(ときめき)亭

  亭主 たきがみ博士